シャボナンとシャボニーナ
ここはシャボンの国の宮殿のソファ室。白い大理石の支柱に囲まれた広々とした空間。その中央にあるソファに腰かけてお茶を飲んでいるのは石鹸の妖精シャボニーナ。そこへ友人のシャボナンが外出から戻ってくる。
シャボナン 「あ~、今日もよく働いた。もう疲れちゃったよ」(汗をぬぐうしぐさ)
シャボニーナ (カップをテーブルに置いて驚いた様子で)「どうしたの?あなたが働くことなんてあるの?」
シャボナン (ムッとして)「失敬だな、ボクだってたまには働くんだよ」
シャボニーナ 「へぇ~、驚いた。一体何の仕事をしてきたの?」
シャボナン 「駅前の公衆浴場に出張」
シャボニーナ 「しゅ、出張?」
シャボナン 「そう」
シャボニーナ 「公衆浴場に?」
シャボナン 「そうさ」
シャボニーナ 「あなたが公衆浴場に出張して何するの?」
シャボナン (呆れたという顔で)「決まってるじゃないか、ボクはシャボンの国の妖精だよ、石鹸でみんなの背中とか顔とかきれいにしてあげるのに決まってるじゃないか」
シャボニーナ 「へえ~、そうなんだ」
シャボナン 「そうだよ」(と言ってから小さくタメ息をつく)
シャボニーナ (シャボナンのことを覗きこむように)「働いてきたという割にはなんだかあまり充実感がなさそうね」
シャボナン (ゆっくりとソファに腰を下ろす)「分かる?」
シャボニーナ (うなずく)「何かあったの?」
シャボナン 「まあ、一言で言えば、存在の耐えられない軽さ」
シャボニーナ 「え?」
シャボナン 「…なんてのは冗談だけどさ」(弱々しく笑う)「実際のところさ、働いたなんてのはウソなんだ。いや、ウソではないんだけど、働こうとはしたんだけど、実際は何もできなかったんだ」(間)「行ってみて初めて分かったんだけど、公衆浴場では固形石鹸のボクのことなんか誰も見向きもしないんだ。気に留めてくれる人なんか誰もいない。いてもいなくても同じ。そこにいる意味がまったく感じられないんだよ」
シャボニーナ 「え…でも、公衆浴場だったら必ず使うでしょ?石鹸は」
シャボナン (左右に首を振りながら)「甘いな、キミは。確かに公衆浴場だから皆石鹸を使う。使うけど皆が手にするのはボクらみたいな固形石鹸じゃない。液体石鹸なんだよ。みんな液体石鹸を使うんだ」
シャボニーナ 「そうなの…」
シャボナン 「来る人来る人、み~んな使うのは液体石鹸。ボクなんか使おうとする人はひとりもいない。ボクなんかいたって何の役にも立ちやしない。見向きもされない。それこそ道端に転がっている石ころみたいなもんなんだよ。誰にも必要とされないというのがこんなにツライものだとは知らなかったよ」
シャボニーナ (黙って聞いている)
シャボナン 「おまけに腹が立つのは液体石鹸の奴らなんだ。あいつらデカイからってイバっててさ。シャンプーとリンスを引き連れたボディソープがボクを邪魔者扱いするんだ」
シャボニーナ 「そう…」
シャボナン 「オマエはそんなところにいたって用はないんだ、オマエなんか使う人はいないんだ、今はそんな時代じゃないんだ、って口をそろえて言うんだよ」
シャボニーナ (ため息をつく)「それで、あなたはどうしたの?そんなこと言われて黙って帰ってきたの?」
シャボナン 「…」(黙ってうつむく)
シャボニーナ 「何も言い返せないで帰ってきたの?」(シャボナンのことを見つめる)「やれやれ、そんなことでどうするのよ?あなたはシャボンの国の妖精なのよ?ダメじゃないの、そんなことじゃ。シャボンとは――私たちの国の定義によれば――シャボンとは固形石鹸のことなの。私たち固形石鹸は長い長い歴史を持ってるの。液体石鹸とは比べ物にならない歴史があるの。それに洗う力じゃ決して液体石鹸に負けないの。それぐらいあなたでも分かってるでしょ?そう言い返してやればいいじゃない」
シャボナン (首を振って)「言えないよ、そんなこと」
シャボニーナ 「どうして?正しいことなら言ってやればいいじゃない」
シャボナン 「そうじゃないんだよ」
シャボニーナ 「何がそうじゃないのよ。言えないのはあなたの気が弱いからじゃないの?」
シャボナン (ムッとした顔で)「…ヤなこと言うなあ」
シャボニーナ 「じゃあ、何なのよ、違うの?」
シャボナン (口を閉ざして押し黙る)
シャボニーナ 「ほら、ごらんなさい」
シャボナン (顔を上げて)「違うんだよ、ニーナ。分かるかい?正直なところ、あの大勢の人たちの中で数時間の間にボクに手を伸ばしたのはわずかにおじいさんと小さな子供の2人だけ、たったの2人だけだったんだよ。ウソじゃない。それがどういうことか分かるかい?誰も固形石鹸なんか使わないんだよ。見もしない。そんな状況でどう言い返せばいい?いくら歴史があったって、いくら洗浄力が優れてたって、使われなきゃ意味がないじゃないか」
シャボニーナ 「でも…」
シャボナン 「それが現実なんだ、それがボクら固形石鹸の現実なんだ。もう誰も固形石鹸なんか使わないんだよ、今の時代」
シャボニーナ 「…」
シャボナン 「あ~あ、液体石鹸はいいよなァ」(手を頭の後ろに組み、ソファにもたれかかる)「液体石鹸はプシュッとノズルをひと押し、ワンタッチで使う分が出てくる。簡単で便利。しかも清潔。それに比べ、固形石鹸は直接手でゴシゴシしないと使えない。きっとそこが敬遠される原因なんだ」
シャボニーナ 「そうかしら」
シャボナン 「決まってるじゃないか。今の世の中、キレイ好きな人であふれているんだ。試しにドラッグストアでも覗いてみるといい。抗菌グッズであふれてる。びっくりするほどだよ。1に抗菌、2に抗菌、3,4がなくて5に抗菌、といった具合でね。知ってるかい?電車の手すりも触りたくないって人もいるんだよ。どこの誰だか分からない人が触ったものを直接触るのはいやなんだよ」
シャボニーナ 「まるで誰かさんみたいね」
シャボナン (シャボニーナのことをにらんで)「いちいちウルサイな、ボクは石鹸の妖精なんだからキレイ好きなのは当たり前じゃないか。とにかく、そんな人もいるくらいだから、たくさんの人が使う固形石鹸を直接触るのはいやだって人がいたって何の不思議もないんだよ」
シャボニーナ 「うーん」
シャボナン 「分かるんだ、その気持ちも。実際問題、公衆浴場の石鹸なんてどんな人が触っているか分からないもんね。中には、すっごく手のばっちい人だっているし。おまけに身体のいろんなところを触った手でその石鹸を握るんだからさ、気になる人は気になるよ。だからそんな面倒くさいものを使うより、プシュッ、で出てくる液体石鹸を使う方がよっぽどいい。何より清潔だ。それが分かっているからみんな液体石鹸を使うんだよ」
シャボニーナ 「ふーん」(シャボナンに一瞥をくれ)「それであなた、悲しくなって出てきちゃったわけ?」
シャボナン 「え?…べ、別に悲しくなったわけじゃないよ」
シャボニーナ 「じゃあ、何なのよ。悲しくなったのじゃなければ、憐れに思ったわけ?自分のことを憐れな主人公とでも考えたわけ?どうせそうなんでしょ?」
シャボナン (ムッとして)「うるさいな、ニーナにそんなこと言われる筋合いはないよ、ボクはただ、もうこれ以上ここにいても無駄だと思って帰ってきたんだよ。だいたいさ、ニーナは外の世界に行かないだろ?その場に行ってみなきゃ分からないんだよ」
シャボニーナ 「まあ、ね」(眉を上げる)「そりゃそうよね、確かに行ってみなきゃ分からない。それはその通りだと思うわ。でもね、あなたは大きく間違ってると思う」
シャボナン 「ボクが?」(大きな声を出す)「間違ってる?一体何を間違っているんだろう?」
シャボニーナ 「行き先よ、行き先」
シャボナン 「行き先?」
シャボニーナ 「そう、行き先。そもそも公衆浴場を選んだあなたが悪いのよ」
シャボナン 「だって石鹸を使うところといえば公衆浴場だろう」
シャボニーナ 「やれやれ、それが浅はかだっていうのよ。そんな不特定多数の人がやってくる場所に行ってどうすんのよ。そりゃ液体石鹸の方が便利に決まってるじゃない。そんなところで私たちを使ってもらおうとすること自体、間違ってるっていうの」
シャボナン 「…じゃあ、どこならいいんだよ」
シャボニーナ 「あのね、ちょっとは自分で考えてみなさいよ、分かるでしょ、考えてみれば」
シャボナン (腕組みをして考え込む)「え~っと、…公衆浴場じゃないとすれば…そうだ、ホテルとか?」
シャボニーナ 「そうね、ホテルもお部屋のバスルームに紙にくるまれた小さな石鹸が置かれているものね。でも」(ちょっと間を置く)「まだ違うわ」
シャボナン 「えー?ホテルも違うのかい?あとはどこだろう?分かんないな」
シャボニーナ 「ホントに考える力がないわね、そんなことだから、公衆浴場に行って尻尾を巻いて逃げかえってくることになるのよ」
シャボナン (小さな声で)「うるせいや」
シャボニーナ 「家よ、みんなの家。それ以外にどこがあるのよ。公衆浴場でもなくて、ホテルでもなくて、世の中の人たちみんなの住む家に決まってるじゃない」
シャボナン 「あ、そうか」(明るい声を出す)
シャボニーナ 「あ、そうか、じゃないわよ、まったく」