シャボン&ピース

シャボン宮殿での日々の一コマ

 

 

 

シャボナン  「今日さ、実は宮殿を出て、あるオジサンの家に行ってきたんだ」

シャボニーナ 「あら、そうなの?」

シャボナン  「そのオジサンは40代後半の人なんだ。たしか48歳だったと思う。48歳といえばもう立派なおじさんだよね」

シャボニーナ 「まあ、そうでしょうね」

シャボナン  「でさ、その人はさ、もうずーっと、20年以上会社勤めをしているんだけどさ、でもその割に役職っていうのかな、あまりエライ地位にはついていないみたいなんだ」

シャボニーナ 「ふーん」(紅茶のカップに手を伸ばす)「窓際ってことなのかしら」

シャボナン  「いや、このオジサンの場合は事務職じゃなくて営業職のようだから、窓際かどうかはパッと見には分からない。でもこれくらいの年齢で役職じゃないってことはそんなに重要視されていないのかもしれない。まわりはオジサンより幾分若いひとばかりだし」

シャボニーナ 「でもそんな人は世間にいくらでもいるでしょう?可哀想かなとは思うけど誰もが管理職になれるわけじゃないし」

シャボナン  「そうだね、確かにそういう人ならいっぱいいると思う。でもこのオジサンがそういう人と違うのは、『いまだに夢を見ている』ということなんだ」

シャボニーナ 「夢を見ている?」

シャボナン  「そう」

シャボニーナ 「別に夢を見ていたっていいんじゃない?何か不都合があるのかしら?」

シャボナン  「いや、これは微妙な違いだから分かりにくいんだけど、『夢がある』というのと『夢を見ている』というのは似ているようで実はまったく違うものなんだ」

シャボニーナ 「よく分からないわ…どういうことかしら?」

シャボナン  「なんていえばいいかな、つまりね、夢があるというのはそれに向かって努力をしているということなんだ。自分自身が骨身を削ってまでとは言わないまでも、それ相応を努力をしている。目標に向かって一歩一歩進んでいる、もしくは進むための準備をしている。そしてそれを見たまわりの人もその人の夢を応援したくなる。それが『夢がある』ってことなんだ。分かるよね?でも、『夢を見ている』というのはこれとは違う。本人は頭の中で夢のことを考えるけど、それはただ考えているだけで、それに向かっての努力は何もしていない。当然、まわりの人にもそんな話はしていない。話したところで応援してくれる人なんかいない。そりゃそうだよね、夢を口先でもて遊んでいるだけなんだから。だから叶うはずもない。これが『夢がある』と『夢を見ている』の違いなんだよ」

シャボニーナ 「その説明すべてに納得できるわけじゃないけど」(少し考え込んでから)「あなたの言いたいことはなんとなく分かるわ。で、そのオジサンはどんな夢を見ているのかしら?」

シャボナン  「それがね、笑っちゃうんだけど、作家なんだよ」

シャボニーナ 「作家?」

シャボナン  「そう、作家」

シャボニーナ 「ふーん、作家かあ。でも作家ならそれくらいの年齢からなった人もいるんじゃない?別に不思議なことじゃないわ」

シャボナン  「そうじゃんないんだよ」

シャボニーナ 「どういうこと?」

シャボナン  「つまりさ、一言で言えばね、書いてないんだよ」

シャボニーナ 「書いてない?」

シャボナン  「そう。何も書いてないんだ」

シャボニーナ 「だってそのオジサンは作家になりたいんでしょ?だったら何かを――その内容の是非は別にしても――書いてるはずじゃない?それが当然だと思うわ」

シャボナン  「そうだよね、ニーナの言う通りだ。だからボクもずっとオジサンのことを観察していたんだ。でもやっぱり書いていなかった」

シャボニーナ 「まさか」

シャボナン  「そのまさかなんだ。このオジサンは作家になることを夢見ながら、その実、何も書いていないんだ」

シャボニーナ 「だってそれじゃ作家になんてなれるわけないわ」

シャボナン  「だよね、書いてなければなれるわけがない。でもオジサンは作家になりたいと思っている。たしかにこれまでを振り返れば、まったく何も書いてなかったというわけじゃない。いくつか書きかけたことはあった。一つや二つじゃない。だけど問題はそのどれもが完結していないということなんだ」

シャボニーナ 「完結していない?」

シャボナン  「つまりね、これまでいくつかの小説を書きだしたことはあるんだけど、ひとつとして完成したことはなく、すべてが尻切れトンボで終わっているってことだよ」

シャボニーナ 「それじゃ無理よ、作家になんてなれっこないわ」

シャボナン  「でも困ったことには、オジサン自身はそのことに気づいていない。いや、ひょっとしたらうすうす気がついているのかもしれないけど、あえてそのことに目をつぶっている。だってそれが――つまり作家にはなれないということが――確定してしまったらオジサンの心の拠り所がなくなってしまうから」

シャボニーナ 「心の拠り所…」

シャボナン  「そう。オジサンははっきり言って会社の仕事はできない。できないから今のような冴えない地位にいる。まわりからもそんな目で見られているし、本人もその視線に気づいている。それなりに悔しい思いもしているんだろう。そんなオジサンの唯一の心の拠り所、唯一の心の支えは、自分はいつか作家になって周りの人間を見返してやるという、その思いだけなんだ」

シャボニーナ 「うーん…だったら書かないと」

シャボナン  「だよね。本当はオジサンもそう思っている。会社にいる時は。会社にいて悔しい思いしている時は。見ていろ、って。でも、家に帰るとその日の悔しい思いも忘れちゃって、とりあえずお酒を飲みだす。この時点では本人は作家の夢のことが少しは頭にあるからいくらかそのことを気にしている。だからとりあえず今は酒を飲むけれど、飲み終わったら書こうとは思っている」

シャボニーナ 「それは無理よ。飲んじゃったら書けるわけないわ」(少し間をおいて)「その人がよっぽどお酒に強いとかならともかく」

シャボナン  「その通り。そしてオジサンは酒に強くない。だから結局は酔っぱらって最後は眠くなってきちゃう。『ま、明日、書けばいいか。明日書こう』ってね。もちろん明日だって同じ光景がリプレイのように繰り返される」

シャボニーナ 「…それでは絶対に作家になんてなれないわね」(大きく息を吐き)「というか、それでは何者にもなれないわ」

シャボナン  「そう。そんな生活をこのオジサンはかれこれ20年も続けている」

シャボニーナ 「20年?」

シャボナン  (頷く)

シャボニーナ 「もう無理よ、あきらめたらいいのに。だってそんなこと繰り返していても何も生み出さないじゃない」

シャボナン  「でもそれがなくなったら自分が何にもなれないという現実を突きつけられることになる。自分の非力を、才能のなさを認めなくてはならなくなる。そうしたらオジサンの人生はある意味、ジ・エンドだ。だから夢をちゅうぶらりんのままにして、言葉は悪いけど、人生の逃げ道を作っているんだよ。オレは会社ではこんな冴えない人間だけど、作家としての人生が残されている。誰もそのことに気づいてないがオレには作家としての道がある。オレは今のような仕事をするような人間ではない。そう考えている限り、オジサンの人生はまだ希望を持って続けていくことができる。たとえそれが見当はずれの考えであったとしても」

シャボニーナ 「でもそんなことをしていても結局は何も生み出さないわ」

シャボナン  「そう、だけどオジサンにとって大切なのはそういう冷たい現実を知ることではなくて、逃げ道を用意しておくってことなんだ。オレは会社では味噌っかすみたいなもんだけど、文章の世界ではひとかどに人間になれる。その世界へ歩む道がもう目の前まで来ているってね」

シャボニーナ 「うーん」(考え込む)「書いてなければそんな道は開けないわ。どうして書こうとしないのかしら?」

シャボナン  「答えは簡単だよ。要するに書けないから。才能がないから。本人にとっては書こうとして書けなければそのことを認めなくてはならなくなる。でも書いてない限り、自分には本当は才能があると思いこむことができるんだよ。偽りの、作り物の自分の姿を見ていられる」

シャボニーナ 「いつまでもそんなこと続けられないわよね?」

シャボナン  「さあね、ひょっとしたら五十になっても六十になっても同じかもしれない」

シャボニーナ 「本人はそれでいいの?」

シャボナン  「よくはないだろうね。でも冷たい現実を突きつけられるよりはいいんだよ」

シャボニーナ 「私にはよく分からないわ。で、あなたはそのオジサンを見てどう思ったの?」

シャボナン  「それを考える前に、どうしてオジサンがそんな夢を見るようになってしまったのかを考える必要があると思うんだ」

シャボニーナ 「え?だってそれは単に作家になりたいからじゃないの?」

シャボナン  「それは間違いではないけれど、でもそれだけじゃない」

シャボニーナ 「あとは何があるのかしら」

シャボナン  「現状に満足している人はそんな夢は見ない。現状が自分の理想通りにいっていない、理想からかけ離れていると感じる人が、どこか別の世界に存在場所を見出そうとしてそういう夢を見るようになるんだ」

シャボニーナ 「なんだか切ない話ではあるわね。でもその夢が叶うことは…」

シャボナン  「たぶんない」

シャボニーナ 「そこまで予想できていて、あなたはそのオジサンに何をしてあげたいの?」

シャボナン  「ボクは…ボクは何をしてあげたいんだろう?」(考え込む)「妖精は人間に対しておせっかい焼きであること。その特性から考えると、そうだな、ボクはそのオジサンに他の楽しみを見出してほしいと思う」

シャボニーナ 「他の楽しみ?作家になる夢をあきらめて、趣味とかそういうことに目を向けろってこと?」

シャボナン  「いや、そういうことじゃない。確かにオジサンの夢の見方は少々いびつというか、不自然というか、本来の夢の力を発揮させてくれるタイプのものではない。でもだからといってその夢を取り上げることまではできない」

シャボニーナ 「別にあなたが夢を取り上げるわけではないでしょう?」

シャボナン  「その夢の代わりにほかの趣味を追い求めるようにしむけることは意味合いにおいては同じだよ」

シャボニーナ 「そうかしら?…それで、そういうことじゃないとしたらあなたは何をしてあげるつもりなの?」

シャボナン  「石鹸の妖精であるボクらは石鹸に関することしかできない。ボクはオジサンにある石鹸を使ってもらおうと思う」

シャボニーナ 「石鹸を?」

シャボナン  「たぶんオジサンの人生はそうとう煮詰まってる。毎日家と会社を往復するだけの生活。休みの日に遊ぶ友達もいない。これといって趣味もない。日々の晩酌だけが楽しみだ。そして叶いもしない賞味期限切れの夢を何十年も懐に抱いている。そんなオジサンの心はたぶん相当収縮してると思うんだ。凝り固まっているというか。だからそんな心を解きほぐしてあげられるような石鹸を使ってもらおうと思う」

シャボニーナ 「なるほど、そういうことね。で、どの石鹸を選ぶのかしら」

シャボナン  「いろいろ考えたけど、ボクはこれにしようと思うんだ」

 

 

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シャボニーナ 「アレッポ。どうしてこれにしようと思ったの?」

シャボナン  「前にも言ったけど、このアレッポにはいろいろな思いが込められているように感じるんだ。何かを訴えかけてくるようなところがこの石鹸にはある。そこにあるだけで何かが始まるような気持ちにさせられるようなところがある。どっしりとした存在感もあるし。そして何よりの決め手はこの、表面に書かれた文字だ。ボクはこの文字を見ていると何かここから物語が始まるように感じるんだけど、それはこのオジサンにピッタリだと思うんだ」

シャボニーナ 「そう言われてみればそうかもしれないわね。選択としては正しい気がするわ、私も」

シャボナン  「でしょ?何か意味ありげなことが書かれているようなこの文字が、ひょっとしたらオジサンの創作意欲に小さな灯をともすかもしれない。可能性は大きくはないけど。でもこのアレッポで顔身体を洗うだけでも相当気持ちいいはずだよ。ちょっとした気分転換にもなるはず」

シャボニーナ 「だといいわね」

シャボナン  「オジサンに必要なのは前を向くこと。後生大事にひからびかけた夢を抱き続けるか、それともさっぱりと手放すか、残りの人生を考えるともうそこの判断をするところまで来ている。もし夢がかなわないのなら、もっと地に足のついた生き方を模索してもいいと思うんだ。今のままの状態で人生の最後を迎えるのはあまりにも虚しい。作家になる夢を天国まで持ち越せるのならともかくさ」

シャボニーナ 「でも手放せるかしら、これまで10年以上抱いてきた夢を」

シャボナン  「正直な感想を言うと、それもまた難しいと思う。このオジサンにとってはこれが長年染みついた生き方になってるから。その生き方を変えるのは難しいかもね」

シャボニーナ 「じゃあ、石鹸を渡して何になるの?何も変えられないかもしれないのに」

シャボナン  「ボクだって何も石鹸がオジサンの生き方を変えられるなんてことはこれっぽっちも思っちゃいないさ。ボクはただ、オジサンの人生にちょっとした変化を起こしてあげたいだけなんだ」

シャボニーナ 「変化」

シャボナン  「そうさ。人間の人生はおおよそほとんどの人が、年をとるにつれて変わり映えのしないものになっていく。会社勤めをしている人ならなおさらだ。よほどチャレンジングな会社でチャレンジングなポストにいるわけでもないかぎりね。年月はあっという間に過ぎていく。このオジサンの場合も例にもれず、もう毎日が前の日のコピーのような暮らしなんだ」

シャボニーナ 「でもね、シャボナン。本当はその変わらないことが幸せでもあるのよ。みんなそれが当たり前で気づかないけどね」

シャボナン  「変わらないことが幸せ…」

シャボニーナ 「そう。変わらないことが幸せなの」

シャボナン  「うん。きっとそうなんだと思う。でもね、このオジサンはあまり幸せそうに見えないんだ」

シャボニーナ 「きっとないものねだりをしてるからよ。作家になりたいなんて夢を追わなければこの人の人生もそれなりに幸せなものだと思うわ」

シャボナン  「うだつの上がらない会社人生でも?」

シャボニーナ 「うだつのあがらない、か…」

シャボナン  「生き生きと仕事をしている人はこんな、現実離れした夢は見ないから」

シャボニーナ 「…いっそのこと、会社辞めちゃえば?」

シャボナン  「え?」

シャボニーナ 「会社辞めちゃえば書くしかなくなるじゃない、あとは」

シャボナン  「それはダメだよ」

シャボニーナ 「どうしてダメなのよ」

シャボナン  「だって辞めたら、作家になれなかった時に食べていけなくなるじゃないか。10代、20代じゃないんだよ、オジサンは」

シャボニーナ 「そんな、端からなれないと思ってるような夢じゃ叶いっこないわよ。だったらきれいさっぱり諦めたほうがいいわ、悪いこと言わないから」

シャボナン  「…」

シャボニーナ 「まあ、そこまでは無理でしょうけどね。でも」

シャボナン  「書くくらいは今の状態でもできるだろってことか」

シャボニーナ 「そういうこと。今できることをやるしかないのよ。年齢は関係ないわ」

シャボナン  「分かった。アレッポの表面にはボクらの言葉で『汝、今すぐに書きだしたまえ』って彫り込んでおくよ」

シャボニーナ 「それはいい考えね。伝わるといいわね、オジサンに」